最近母が骨折をして、色々大変で、ブログを開く余裕がなくて、ご無沙汰してしまいました。
書かないからと言って、私が平穏に暮らしているわけではなくて、グチグチ、グチグチ、言われる日々で、何を言われたかいつものことだから忘れてしまいました。
ずっと気になってたことがあります。
8月30日の聖教新聞。
ここを読め、とばかりにテーブルの上に広げてありました。
希望の指針、親と子の対話
池田先生の指導に学ぶ。
お母さんが怒り出してもともかく返事だけは「はい」「そのとおりです」と素直さを演じておけば、云々
怒ったり泣いたりする親に対して、「女優になれなかったから来世にそなえて練習してるのかな」と考えてあげる余裕を持っていてもいい。
そしてたまには「父上肩でもおもみしましょうか」「母上今日は格別おきれいですね」とお世辞でもいいから言って喜ばせてあげるくらいのサービス精神があってもよいのではないだろうか。
特に返事が大事だ。「はい」の一言には親を安心させる魔法の言葉だ。
親の言うことが自分の意見とあわないことは当然だ。だからその違いを乗り越えて仲良くしていくことだ。
みたいな指導があります。
なぜ、子供側が、親の機嫌取りのように素直さを演じる必要があるのでしょうか?
なぜ、子供側が、感情的に対応する親を、余裕を持って大きな器で見逃さないといけないのでしょうか?
なぜ、親と子の意見が合わないことを、子供側が、多めにみないといけないのでしょうか?
なぜ、親に言わないのですか?
子供とは違う人間なんだから、考え方が異なっても仕方がない、と。
母に言われます。
ほら、新聞にも書いてあるでしょ、はいって返事が大切だって。
子供が、親がどんな醜態をみせても受け入れて、はいと従い、肩をもみましょうかと親を敬う。
池田先生の指導は、親にとって、素直で従順で、ただの都合のよい子供になれと言ってるようです。
だから自我が出てきて、親に意見すると
「子供のときは素直だったのに、学校にいったから(○と付き合ったから、邪宗と関わったから、悪知識と関わったから)変わっちゃったんだ、ホウボウだ、退転したのか、」
みたいに言われる。
違う。
みんな、違う人間だから、いろんな意見があっていい。
そのままの子供を受け入れる必要が、本当はあったのに、
活動する子供、
題目あげる子供、
池田先生を尊敬する子供、
だから、偉い。
親に意見しない、
なんでもはいと返事する、
言う通りに動く、
そして親を敬う、
親を許す、
親を理解する、
だから、この子は、いい子。
違う!!
どんな考え方を持っていても、
ありのままのその子を、
無理しないその子を、
大切にする必要があった。
頑張らなくてもいい。
辛かったら休めばいい。
そのままで、いい。
違う…。
学会では、
もっと頑張りなさい、
辛かったら題目あげなさい
打開できないのは題目が足りないから
だからもっと、もっと、頑張りなさい、
まだ足りない、
休むのは魔だ
魔に負けたくなかったら、見破り、戦え
活動しない子供は、いい子じゃない
はいと言わない子供は、いい子じゃない。
親孝行しない子供は、いい子じゃない。
いい子じゃない、から、御本尊様に祈る。
子供を見ない。
仏壇を見てる親。
それが、学会なのではないでしょうか。
骨折した母の病院を探すために夜間、電話をしたのは、私。
母を病院に連れていったのも、私。
通院のために送り迎えしたのも、私。
活動しない、出来の悪い、私。
日々題目をあげていて、福運がたまっている母でも、怪我をした。
もし、逆なら、相当、責められていた。
活動しないからだ、バチが当たったんだ、御本尊様に感謝しなさい。
でも私は、母を責めない。
同じような意地悪はしたくない。
病院の会計が複雑だったため、帰宅後にまた行かなくてはならなかったときも、母を責めずに送迎した。
会計で諸天善神になってくれるはずの人たちも居なかった。
結局、母を助けているのは、御本尊様でも諸天善神でもなくて、
生きている、出来の悪い、日々貶している、罵る対象の、私だと思う。
見るべきは、仏壇ではなくて、人なんじゃないでしょうか。
大切にするべきは、仏壇ではなくて、身近な家族なんじゃないでしょうか。
ありがとう、ありがとう、感謝感謝。
それを伝えるべきは、選挙をいれてくれる誰かじゃなくて、折伏中の誰かじゃないって、気付くのでしょうか。