退院したばかりの母に代わり、祖母の49日法要へ参列しました。
その地域は日蓮正宗のお寺があるので、地元の人たちはだいたい日蓮正宗みたいです。
私も学会とお寺がわかれるまでは、お正月とか行ってたし、七五三の写真もそこで撮ったのがあります。
お寺に向かうと、電気がついておらず、まだ準備中の時間なのかな?と思いました。
予定より早く来てしまったのかな?って。
しゃくぶくの年!とかポスターがあって、日蓮正宗の根本は学会と同じなのかと面食らいました。
玄関も廊下も階段も電気がついていないので薄暗く
、誰もいない建物の中を叔父の案内で進み、二階の本堂?200畳くらいある広間に着きました。
天井が高く、12台くらい、業務用のエアコンが設置されていましたが、動いていませんでした。
両サイドは大きな窓があったので暗くはなかったけど、明るくもなく、電気は一番前の一列の3本だけがついていて、節電?
仏壇の周りの壁は金。
仏壇も金。
御本尊さまの南妙法蓮華経の文字も金。
仏壇周りの天井からも金色の装飾品がじゃらじゃらとたくさんぶら下がっています。
そこだけ、明るく、
私たちのところは、暗く
教室にあるようなストーブが一つ参列席の間にあったので、そのうちつくのかとおばあさんたちと共にストーブの近くに座ってました。
とても寒い日だったので。
住職がやってきました。
そして、まだ全員そろってないのがわかると、戻っていきました。
ストーブ、つけてくれるわけではなかったのです。
結局、その寒くて暗いなか、勤行の法要が始まり、そして、暖かくも明るくもなることなく、終わりました。
最後に住職が話を始めましたが、何か故人の供養とかそうゆう話かと思ってましたが、
「何か、ありますか?」
と叔父に聞き、
「大丈夫です」
と答えます。
すると
「私はねいつも思うのです。自分で何か求めないと自分のものにはならないと。耳に残らない。」
と、叔父に説教?してて、あっという間にそれだけで終わりました。
相手が必要としてそうな話をするのが仕事なんじゃないのか?と思いました。
日蓮正宗だからなのか、このお寺だからなのか、すごく、横柄で、供養にきた人たちへの気遣いっていうか、そうゆうのが全然なくて、お坊さんと言う職業だから慈悲の心で故人を供養するっていうことすら感じられず、こうゆうのをお金だけもらって拝んでるだけ、って言われちゃうんだろうな。
なんでそんなに偉そうなんだろう。
もし、純粋に日蓮正宗を行いたいのなら、横柄なお寺側より、学会の方が温かい感じがします。
学会の会館が暗かったり寒かったりスタッフの人たちの感じが悪かったことなんてないし。
お寺側についた人たちは、横柄なお寺のどこが良いのかなぁ。
お寺の敷地内にあるお墓ゾーン、みんなおしきみがいけてあり、、おしきみが当たり前のようにそれだけいけてあるお墓しかない光景は、斬新でした。
中には全然手入れされてないお墓もたくさんあって、お化けがでそうな、見てるのも辛くなるような放置っぷりで、そうゆうのって、お寺は関与しないのかなぁ。
父方の実家のお寺はとても良い住職っぽくて、お葬式のときも素敵な話をしてくださったり、だから、いろんなお坊さんがいるのはよくわかるけど、悪いお坊さんしか知らなかったら、悪い印象しか持てなくなるのも仕方ないのかなって、思います。
横柄な住職だったなぁ。