息子が幼稚園で嘔吐してしまい、迎えに行ってきました。
熱もあり、乳児の頃、熱性痙攣で入院したこともあるので、けいれんどめの座薬をいれて、リビングのソファで寝ています。
そんな息子の前で、テレビを見て大笑いしたり、テレビの内容を話しかけたり、
病人の前ですることか?と思いました。
静かにしてあげればいいのに、と。
あまりにつらいようで、ソファで気絶するように寝入りました。
ベットルームは寒いので、このままここで寝させようと布団をかけたりしていると、
南天がどうとか、花がどうとか、ずっと話していて
結局息子が目を覚ましてしまい、
ベットルーム行きたい
とボンヤリしながら呟きます。
ごめんね、うるさかったよね、ごめんね、ほんと。
と心のなかで謝る私。
今、ベットルームで、ふぅふぅと苦しそうな寝息。
やっと静かに眠れるね。
母は、おそらく、題目あげて祈ってるから、だから、気を使わなくてよい、と思っているのです。
私はやるべきことをやっているのだ、
1番大切なことを、
祈ってるから、
だから、
そんなことしなくていいんだ。
嘔吐した子供を一人で眠らせておけないので、また吐いてしまうかもしれないし、痙攣もちゃんと抑えられるかわからないし、
だから私は隣にいます。
もそもそ動くと、吐く前兆かと気を張り詰めています。
祈ることより、目の前の苦しむ子供を見れば、おのずとやるべきことは見えてくるのに、祈ってるから、という自信で、苦しむ姿も見えないのです。
どうして大笑い出来るのでしょう。